跡部様の素敵な眉が歪む。歪んだ顔すら美しいってどういうことなんだろうか?黙って私を抱き抱えたままプールサイドに向かって泳ぎ出して、私をプールの端に座らせた。水の中に入ったまま私を見上げる跡部様は、どこか憂いを帯びた顔をしていた。右手が水面から上がってきて、私の頬に沿えるような仕草を見せながら思いとどまるように握り拳を作って下げた。
「その様子だと嘘を言ってるようには見えねぇな・・・俺は跡部景吾だ」
「・・・あ、跡部・・・景吾さま」よく存じ上げておりますと思いつつ、言葉を繰り返した。まるで初めて聞く言葉だというように。
「敬称はいらねぇよ」
少しだけ、ムッとしたようにも見えた跡部様の表情に疑問を抱く。よく注意していないと聞こえないような音量でチッと舌打ちをして、私の横からスッと水の中から上がった。
「お坊ちゃま・・・?」
真っ白なバスタオルを手にこちらの様子を伺う男性に私も視線を動かした。
「あぁ、俺様の拾い物だ・・・丁重に扱ってくれ」
チラリとこちらを見てそう言い放つと、タオルを受け取らずに家の中へ戻っていく跡部様に承知致しましたと深々と頭を下げた人は多分ミカエルさん。思ってるよりダンディーだ。私のそばにそっと近づいてきて手に持っていたふわふわのタオルを私の肩にかけた。
「それではいきましょうか、お嬢様?」
ミカエルさんに促されて私はプールサイドから腰をあげて跡部様が入っていった家の中へと歩みを進めた。
あれよあれよのうちに、跡部家の皆様のおかげで私は身体はポカポカ、衣服も新品の水色のワンピースに身を包んでいた。改めて状況を整理しようと、ここでお待ちくださいとメイドさんにつれて案内された客間のふっかふかのソファーから立ち上がって、姿見を探した。目当てのものはすぐに見つかって、姿見の前に立って恐る恐る視線を上げた。そこには確かに私がいて、でも”私”じゃなかった。違和感を感じた。でもその違和感の正体が何なのかが分からなくて、ただ私が今唯一知っていることはここがテニスの王子様の世界だということ。ただそれだけだった。神様・・・よくある美少女、ご都合主義トリップ特典なしですか?
「私の名前・・・なんだっけ。やだ、どうしよ・・・本当に分かんない、」
そう呟いて姿見の前でそのまま座り込み、両手をクロスして自分の腕を強く掴んだ。爪をたてる。そこから感じる痛みにここが現実なんだと思い知らされて、余計に悲しくなる。私は、多分もう大人だったと思う・・・ハタチは超えてたはずなのに今の私の姿は中学生の頃そのもので、強いていうなら髪の毛の色が黒ではなくて漫画の世界ではよく見かけるチェリーピンクのような髪色だった。私がぐるぐると頭の中で考えているうちにやってきていた跡部様が私のすぐ横で膝をついてこちらを覗き込んでいた。
「っ!!!!すすすすみません!跡部景吾様」
「敬称はいらないと言ったはずだが?」すぐ近くにいた跡部様から、ジャンプをするようにサッと離れると、面白い生き物を見るような目でこちらを見る跡部様と視線が合わさる。
「えーと、あの。助けて頂きありがとうございました・・・それとご迷惑をおかけしてすみませんでした。このお洋服も・・・色々ありがとう」
「いや、構わないぜ。しかし、突然現れたのかそれだけがわからねぇな・・・」私、こことは違う異世界から来たんです〜貴方のこともよく知ってます〜大好きです〜!でも自分の記憶がないんですよねぇ〜!なんて言おうものなら精神科に連れてかれるのが目に見えてる。
「名前も住んでる所も全然覚えてなくて・・・どうしよ・・・ホントごめんなさい、あの・・・すぐ出ていくので!」
と自分でも気がつかないうちに手に力が入ってしまっていたようで腕に立てた手を跡部様がすぐに気がついてその上に手を重ねる。
「おい。やめろ・・・落ち着け、大丈夫だ。追い出したりしないから」
あの跡部様が私に手を重ねてる・・・キヤッとするというよりはそこから感じる温かさにここが現実であることを突きつけられて目の下に涙が溜まる。視界がぼやけて瞬きをすると一気に涙がこぼれ落ちる。
「・・・おい、泣いてんのか?」
突然泣き出した私に跡部様は、ビックリしたようにでも心配そうに頬に流れ落ちた涙を親指で拭ってくれた。
「すみません・・・大丈夫ごめんなさい」
「フッ、お前は謝ってばかりだな。こういう時はありがとうでいいんだよ」
顔を少しだけあげると優しい表情で微笑んでいる跡部様が目の前でいっぱいになる。私にだけに向けられた、その笑顔に一瞬勘違いしそうになる。
「・・・ありがとう」
「あぁ。それでいい・・・ひとまずお前のことはミカエルが調べてる。安心しろこの俺様に出来ないことはない」
ふふと笑った私に、スッと目を細めて笑った。
「さぁ、もう立てるな?ゲストルームに案内する」
私の腕に手を重ねてたまま、立ち上がらせる。
「あ、あの跡部景吾さ・・・んのご両親は?ご挨拶しておかないと不味くないですか?」
「ふっ、フルネーム呼びか。おもしれー女だな・・・父親も母親も今は海外にいる、日本には俺だけだ。心配するな問題はない」
生のおもしれー女頂きました!なんて心の中でガッツポーズをしながら、そうなんですねと返事をする。
右手をずいっと差し出されて、その手と跡部様を何度も往復していると、プッと笑う跡部様。年相応の笑顔に少しだけホッとする。
「エスコートは必要ですか?迷い姫」
前言撤回!跡部様は跡部様だ。あんな整った顔にそんなことを言われて赤面しない女がいるわけがなく私も例外なく顔を赤らめて、差し出された手に自分の手を重ねるのを躊躇していると、そっと手を取って王子様のように誘った。
ゲストルームの中を案内してくれてる跡部様に手を引かれながらもう片方の手で目を擦る。
「・・・俺としたことが、お前も突然のことで色々疲れたよな?」
「い、いえ!こ、これは目にゴミが・・・」
と首を振る私にふっと優しい眼差しを向けて、ベッドに座らせた。
「詳しい案内はまた明日にする。眠れ・・・お望みなら子守唄でも歌ってやろうか?」
揶揄うように言われたその言葉に、私は思いっきり首を横に振った。跡部様にそんなことをさせたら学校に通えない!・・・通えない?なんでそんなことを思ったのかわからないまま、瞼が閉じてくる。眠気には抗えそうにない。跡部様が私の肩にそっと触れた。そのまま身体を横たえるとそっと肌触りのいい掛け布団が掛けられる。まるで高級ホテルのベッドのようなふわふわのベッドに肌触りのいいシーツ。自分で思っていたより疲れていたようだった。
「・・・おやすみ」
夢の中に落ちていく瞬間に耳に残ったのは優しい跡部様の声。おでこに何かが触れて離れていく感覚があったような気がしたけど眠気には勝てなかった。
◇
スゥーと寝息を立てて眠る彼女の頭をそっと撫でて立ち上がる。彼女がなぜ俺の家のプールに沈んでいたのか分からないが、彼女が記憶をなくしているのは本当のようだった。
「お前が、俺に敬称をつけるなんてな・・・」
と小さな声で呟く。部屋を出るとすぐにミカエルがやってくる。
「お嬢様の家には連絡済みです。記憶喪失のことは伏せてあります・・・どうやら突然居なくなったようで、だいぶ取り乱されておりました」
「そうか・・・」
「お坊ちゃまのところにいると聞いて少しは安心されたようでしたが」
「遅かれ早かれ、あいつの記憶がないことはわかっちまうだろうな・・・記憶が戻るまで、いや夏休みが終わるまで預かれないだろうか・・・」
そう小さく呟いた俺にミカエルはフッと笑ってから口を開いた。
「お坊ちゃまもお嬢様に対して相変わらず過保護ですね」
「あいつは、イギリスのプライマリースクール頃からずっとそばに居たからな。家族も同然だろ?」
「旦那様と奥様には私から話をしておきましょう」 「あぁ、頼む」そういってもう一度後ろの扉に視線を移してから自室へ足を進めた。
